日本人の思考っていうのは非常に難解だとこちらで言われますが、それはアメリカが各論文化なのではないかと思います。彼らは事例を区切って考えられる。だから答えが出せるわけです。
子どもの頃から劣悪な環境で育った少年が、青年になり犯罪を犯した事例があります。これに対して、誰が悪いのかという質問がありました。
アメリカ人はその多くが少年が悪いと答えました。日本では、環境が悪いと答えた人が多かったそうです。
区切って、それに対して答えを出す。だからアメリカ人は意見がぼんぼん出ます。ただし深くはない事が多い。それが及ぼす周りへの影響があまり考慮されていないからです。この思考が、戦時には恐ろしい作用をもたらします。絶対正義のアメリカという思考もここに由来すると思われます。
広い関係性を見る日本人ですから、森羅万象、世の中の一部が我々だと捉えていますから答えが出るはずがありません。意見を言えば、必ず何か矛盾をはらむからです。私が考えている世の中とは、今考えている私も含む。ジョージソロスに言わせるとこうなってしまいます。意見とはそういうもの、完全な意見など存在しません。反論できない意見など存在しません。
であれば黙して語らず見ず動かずの方が、少なくとも矛盾しないので、安心ではあります。
実は以前私の中で大きな壁がありまして、それによってブログに言いたい事を言っていない時期がありました。それはなにかと言いますと、正しい事を言いたいという欲求でした。しかも誰から見ても正しい事です。
ちょっと考えれば正しい事など存在しない事など子どもでも分かる話ですが、当時の私はそういうものがあると信じていました。理由はともあれ、ある日それがぱりんと壊れ、それからは思った事をなんのフィルターもかけずに書いています。書き捨てがブログの正しいあり方だと今は思っています。
『偏りなど存じ上げた上で申し上げます』
意見ってのは所詮こういうところは避けて通れません。偏ってなどいないという事は、傲慢であるか、もしくは自分のほんとの意見を他人の目によってねじ曲げる事につながります。偏りは個性でもあります。
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@nifty:為末大オフィシャルサイト「侍ハードラー」:思考の癖
なっとく